京大・阪大・医学部受験のあれこれ

京都大学大学院卒のプロ講師・家庭教師によるブログ

ケース)和歌山、国公立大の答案用紙は論理性重視

9月ごろある依頼が来ました。生徒は3年生で志望校は京大工学部。

聞くと結構前から、そのセンターに来ていた案件だったそうですが、講師が全く決まっていなかったらしいのです。

それもそのはず、指導場所は和歌山でした。

 

とりあえず残り数ヶ月、やれる限りやってみようということで引き受けることになりました。

やってみるとそれなりに実力はありかなりいい線にいました。

残り数ヶ月でしたので、過去問を中心に二次試験対策を主に詰めていきました。

 

やってみて大変だったのはなんと行っても時間です。

平日は夕方からの指導でなんとかなったのですが、困ったのは休日でした。朝9時からの指導を頼まれましたが、京都からでは朝が早すぎる。とてもとても辿り着かないということで、前日は和歌山のカプセルホテルで寝泊まりして指導に行きました。

 

センター試験ではそれなりの成績を取ってくれたので、志望通り京大工学部を受けることになりました。

 

彼は親戚が京都に住んでいたので、入試のまではそこに泊まっていました。入試前日、私は京都の親戚宅に呼ばれました。まあ、入試の前日にああだこうだすることは学力的には意味がないのですが、激励と応援のために向かいました。

 

そこではなにか問題でも解くのかなと思っていましたが、彼は精神統一のためかひたすらにピアノを引いており、私はただただそれを聞いて時が流れました。

 

京大の入試が2日間行われてその2日の終わり、また私は彼に会いに行きました。そこで顔を合わせると、彼は見るからにニコニコしていたので、ああできたんだたとその時は思いました。

 

しかし、よくよく話を聞いてみると「ところどころ分かりづらいところがあったが、なんとかごまかした」「答えがあってるから多分大丈夫」など、不吉なことをいっていたのを聞いて、一転これはヤバそうだと思い、私は「お疲れ様。でも世の中何が起こるかわからんから、とりあえず前期のことは一旦忘れて、出している後期の阪大に向けてまた切り替えて頑張ろう」とアドバイスしました。

かれは「なんで今さらまた勉強しなあかんねん」と言いたそうな目で、大変不満そうではありましたが、そこはなんとか押し切って勉強を続けさせることにしました。

 

国公立大の入試、特に京大の入試というのは答えがあっているかどうかよりも、答えに至る論理が正確かどうかが重視されるのです。

そういった点で模試とは採点の基準が結構違います。

模試で良い判定が出ていた受験生が、入試で成功しない原因は割とこういうところにあります。

答案用紙の論理は注意深く書かないと、最悪答えが合っていても0点になるということもあります。

 

京大の発表日、残念ながら彼は不合格でした。

後期試験は発表の10日後で、時間はそれほどありません。勉強を続けさせておいて正解でした。

 

かれは後期の阪大にはしっかりと合格し、阪大に通うことになりました。

ケース)文系、京大数学満点

依頼が来たのは1浪目の4月頃でした。

依頼してきたのは祖母で、生徒自身は大阪の公立高校に通う方でお家も大阪だったのですが、祖母が住む京都のお宅で数学を見てほしいという依頼でした。

 

文系京大法学部志望の子で、予備校は枚方にある有名なところに通っていました。私は、数学がとにかく弱かったので1から基礎を教えていくことになりました。

 

最初はかなり不安がありましたが、相当努力家な性格だったため、センター試験ではかなり良い成績を修めてくれました。

 

それから二次試験対策に移る際、予備校ではどういう対策をとっているかと聞いてみると、蓋を開けてびっくり、その予備校ではほとんど授業をしておらず、ほぼ一日自習だけをしに行っているような状態だったそうです。

 

なので二次試験対策というものをどの科目もほとんどできていない様子でした。数学も京大の過去問をやらせてもほとんど解けない状態でした。

仕方がないので、英語などについては一応二次試験対策として英文解釈教室などを進めて、数学は比較的優しいA問題ばかりを解かせて対策を進めていきました。

 

数学は基礎を教え込んでいたおかげか、着実に実力はついていっているようでした。

 

そして二次試験、見事京大法学部に合格。私はほっとしました。聞けばほとんど独力で学習されていたようなので、さすが努力家なだけあるなあと思いました。

 

それから2ヶ月ほど経って、同じくその祖母のおばあさんからまた電話がかかってきました。どうやら京大の成績開示が来たらしく、開けてみるとなんと数学が満点だったそうです。

センター直後はA問題も解けない状態だったのにそんなこともあるもんかとつくづく感心しました。

 

その後、認めてもらえたのか、今度はその妹さんの受験もお手伝いすることになりました。彼女も文系だったのでしたが、彼女の場合は阪大に合格していきました。

ケース)プレッシャーに強い姉と弱い弟

依頼が来たのは現役生の冬でした。

かなり努力家の女の子で、塾も有名な進学塾に通っていました。

依頼が遅かったこともあり、数週間でそれほど変わるはずもなく、センター試験は失敗し、結局浪人することになりました。

医学部受験で現役合格するのは、特に国公立大学は相当周到な準備が必要です。

 

そのお宅は当時大阪だったのですが、しばらくして京都に移りました。

そのお母さんが言うには「うちの家は子供に合わせて、家を決めるんです。実家は愛媛にあるので、最終的にはそこに帰ります。それまでは子供に合わせて家を変えます」ということで、つまり弟が京都の私立中学に合格したためそれに合わせて引っ越しをしたということでした。

そこからも分かる通り、かなり教育熱心なお母さんでした。

 

しかしそれだけのことはあって生徒もかなり熱心で、さらに周到な性格をしていました。

志望校もよく関西の国公立大志望者があげるように阪大や市大(現公立大)と言うのではなく、岡山大と言っていました。その理由は、最終的に帰ることになる愛媛とそのエリア(四国・中国地方)で、一番幅を利かせている大学だからということでした。

 

この生徒は非常に優秀で、予備校もそつなくこなし、実力も特に問題なくつけていきました。

 

秋には防衛医大で軽々と合格を取り、私大では大医・関医と正規合格、そのまま前期日程で岡山大学もきれいに通ってしまいました。

結局彼女は入試で負けなしでした。

 

それから何年かして、弟くんの受験も再度ご依頼を受け、お手伝いさせていただくことになりました。

それは3月末だったのですが、電話がかかってきて取るなりいきなり、

「先生、近大の後期に通ったんですが、どう思います?これやたら猛威2年させたほうが良いですよね?」

と畳みかけるように聞かれて、はじめはさっぱりわけが分からず

「失礼ですが、どちらさんでしょうか?」と聞き返してしました。

 

結局、弟くんはお母さんの強い意向もあり、近大を休学にして予備校に通って再受験することになりました。

 

ちなみにその時はてっきり京都へ教えに行くものと思っていたのですが、今度はお家は神戸に移っていました。

その家のお父さんはというと、大学の教授選に出るほどの方だったのですが、可愛そうなことに今回はこっち、次はあっちと、お母さんの指示を受けて車一台とともに右往左往し、付き従っておられるようでした。

 

弟くんは、お母さんと祖母と叔母に完全管理されている状態のようでした。

岡山大に言った姉はというと、やはり相当優秀な成績を修めており、学年で1、2を争っていたそうです。そんな事もあって弟くんは家族に対し立つ瀬がない状態で、彼女ができるようなこともなく厳しい管理のもと学習をしていました。

 

そんな弟くんはかなりプレッシャーに弱い性格で、いざセンター試験の本番では大コケしてしまいました。

 

これはまずい思い、受験の焦点をずらす作戦を取りました。

 

センターの点数から国公立は厳しくなったので、現実的には大医・関医の合格はほしいところでした。しかしそこを焦点にしてしまうと彼の場合プレッシャーになってしまうので、あえて慈恵会を受験してもらい、あたかもそれが目標だということにして、大医・関医から目をそらして紛れさせました。

対策もほぼ慈恵会を中心に行って、大医・関医などは勝手にやっといてという始末で、ご家庭の方からもなるべく他の受験校のことについては話を避けていただきました。

 

それがハマったのか、慈恵会は残念ながら二次補欠止まりだったのですが、大医・関医は両方正規合格をとり、大医に至っては特待生まで取りました。

 

ちなみに、秋頃彼も防衛医科大学を受験したのですが、その申し込みに行った際募集案内所で住所を書いた時、「ひょっとして君、お姉さんいないか?」と聞かれたそうです。

「います」と正直に答えると、彼は自衛隊の方に「君のお姉さんにはさんざん騙された」と恨み言を言われました。

お姉さんは国公立の合格を確認するまで、防衛医大の合格を確保しておくために「私は防衛医大しか考えていない。他の大学は考えていません。」とはっきり言っていたので、その自衛隊の方はあれやこれやとお姉さんの世話をしていたそうです。

しかしいざ岡山大学の合格をとると手のひらを返して防衛医大の合格を蹴飛ばしたので自衛隊の方はかなり困ってしまったということです。

そして、そのつけが弟くんに回ってきていたようでした。

弟くんは防衛医大には通りませんでした。まあ学力的にも通っていたかわかりませんので、そのせいかどうかは定かではありません。

 

 

ケース)今年の入試は間違っても通さないで

依頼が来たのは、センター試験(現共通テスト)が終わった直後でした。

当初聞いていたのは神戸大の工学部志望。

高3生で、その年のセンター試験の成績はいまいちぱっとしないものでした。

 

最初の面談ではやれるところまでやりましょうかということで、国公立二次試験に向けて1ヶ月、開始しようかとまとました。その帰り際お母さんにちょっとちょっとと呼び出されました。そして

「先生お願いがあるのですが、今年の入試は間違っても通さないでください。」

と言われました。

 

家庭教師をやってきて、「なんとか通してください」これまでさんざん聞いてきましたが、こんなことを言われたのは初めてでした。

 

まあ簡単な話、お医者さんのご家庭にあることなのですが、希望としては医者の道に進んでほしいというのがあったようでした。

 

お母さんが言うには、

「じっくりと考えた上で、工学部を選ぶのであれば構わない。何がなんでも今すぐ医学部を受けなさいと言うつもりはありません。」

ということでした。

 

まあ、そもそもそのときのセンター試験の点数では頑張ったとしても、神戸大学工学部は厳しいだろうなと言う見通しだったので、何が変わるでもなく普通に指導しました。

結果は残念ながら?不合格で、浪人することになりました。

 

浪人に際して、彼は友人と一緒に河合塾の入塾テストを受けに行ったのですが、友人が医学部向けのコースをこぞって受けていたので彼も医学部進学コースのテストを受けました。すると、他の友人が落ちる中なぜか彼だけ医学部コースの認定が降りて、またそれがきっかけで完全に彼の興味が医学部に向き、医学部志望になってしまいました。

 

お母さんは時間が経てばいずれこうなるということを見通していたのでしょう。そのときやはり「親は一枚上手だなあ」と思いました。

 

それから3月に河合塾の授業が始まるまでの約1ヶ月間、これまでの生徒と同様にきっちり基礎固めをしてもらうことにしました。

彼は基礎がまだまだだったこともあり、ここは入念に行いました。

 

春授業が始まってからも、予備校の復習などフォローをまずは行い、それから弱い箇所や足りないことを埋めるよう指導を行いました。

 

その甲斐あって、春の模試では偏差値70を出してくれました。

しかしそれでも一筋縄ではいかないのが浪人生の受験です。

 

彼自身もそれはよく理解していました。良い成績がでても緩むことなく、

「俺たちはプロペラ機で、灘や甲陽のやつらはジェット機。いくらプロペラ機が必死で飛んだところで、ジェット機は後から目にも止まらぬ速さで飛び去っていく」

といっていました。

 

そして、後期になると成績は徐々に伸び悩んでいきました。

 

これは河合塾に通った生徒からちょくちょく聞くことなのですが、河合塾は人間関係がややこしくなりがちなようです。面倒くさい人間関係のいざこざに巻き込まれて、勉強とは別のところで足を引っ張ってしまうのです。その生徒も悩んでいました。

正直、予備校で何やっとんじゃいと呆れましたが、済んだことは仕方がありません。

 

ついには国公立大を受けるにはちょっとという成績にまで落ちて、本人も相当にショックを受け、悩んでいました。

 

本人はそこでお母さんに相談したらしく、

「この調子やと、国公立に行けへん。どうしよう。」

すると、お母さんは

「国公立がそんなにしんどかったら、私立にしたらええやん。」

と一言、本人が

「そうやなあ」

と同調すると、お母さんはおもむろにタンスの戸を開けました。するとそこには主要な私立大の赤本が一式ずらーっと並んでいたそうです。

 

それを聞いて、改めて「母親は怖いな」と思いました。

そのお母さんは子どもの賢さや忍耐、性格を正確に認識されていて、最後はこうなるということを完全に予測していたようでした。

 

本人はそれから目標が定まったらしく意識がまた変わってかなりやる気を出すようになりました。

 

それからの勉強は大量にある過去問を1から解いていくことに重きを置き、河合塾の方はほどほどにこなしていきました。

問題は私が簡単な問題からピックアップして、順序を指定しながら進めていきました。これがかなり実力に結びつきました。

その代わり一度彼の授業に行くと、質問回答や解説でなかなか離してもらえず、毎回かなり長引くようになりました。

 

ある日彼の授業をしていて、次に19時半から別の所で授業があるのに、例のごとくなかなか離してもらえないということがありました。

 

すると、さすがに私が

「もうそろそろ」

というと、彼は

「次に授業があるんか?」

と聞いて来て、

「実はあるんや、そろそろ行かなあかん」

と答えると、

「いま何年?」

とまた聞いてきたので

「高2」

と答えると、

「高2?、そんなんまだあと1年あるやん。俺らはもう背水の陣どころかもう水に使ってるんや。そんなん10時にしてもらえ」

と言ってきました。と同時に

「高2の頃は楽しかった。あの頃に戻りたい。」

としみじみ言っていて、それを聞いてなかなか仕上がってるなあと思いました。

 

入試結果は、ジェットコースターでした。

あまり難関の大学選ばなかったのですが、受かったり落ちたり、それが大学の難易度に関わらず起きました。

私の経験の中では、河合塾に通った生徒はこういう結果になることが多いです。

 

入試の期間で、彼らしいなと思ったのは、藤田の二次試験を受けに行った時、面接で「医療事故を起こしたらどうしますか?」と聞かれて、彼は「保険に入っておきます。」と答えたらしく、面接官にボロクソに叩かれたそうです。

現実にはそれはそうやけど、今それを応えたらあかんやろと。

ただそれでも、補欠合格は取ってきました。

 

最終的には近大に合格し進学しました。

彼の当時の実力としては上々の結果だったと思います。

 

ちなみに国公立大には未練があり、前期は浜松医科大を受けましたが、残念ながら散ってしましました。

 

ケース)国公立単科医大志望、浪人生先行逃げ切り型の理想例

依頼が来たのは、1浪目の秋の頃でした。

お医者さんのご家庭というわけではなく、ごく普通のご家庭。

私大は難しいということで、志望は国公立だったのですが、なぜか単科医大志望。(単科医大は国公立の総合大学に比べ、難問が出題されます)

 

学力をみてみると、京都の名門進学校に通っているだけあり、ポテンシャルは感じましたが、秋ということもあり時期的に厳しい状況でした。

 

面談が一段落し帰り際、ちょっとちょっととお父さんに呼び出され、「間に合いますか?」と率直に聞かれました。でしたので「正直、今年は間に合いそうにありません。」とはっきり応えました。

生徒本人に伝えるかはともかく、ご両親は先々の結果に応じて選択肢を検討する必要がありますので、正直ベースで話し合うことが必要だと思っています。

 

それからやれることはやって入試を迎えましたが、やはり合格までは至らず、2浪することになりました。

 

3月13日国公立大後期日程の翌日、彼から電話がかかってきました。「先生、もうあきません」と試験の手応えを見て落ち込んだ様子でした。

 

そうなって初めて彼にまず伝えたことは、国公立の単科医大に志望というのは非常に難しいということです。

また取るべき作戦としては、前期で単科医大を受け、私大の滑り止めがない分、国公立後期を滑り止めにしようということでした。

国公立の後期試験はセンター試験(現共通テスト)の配分が大きい大学がほとんどなので、センター試験で高得点を叩き出し、その後の合格判定システム等で確認して後期は安全圏に出すというシナリオを目指しました。

 

そして、この作戦もかなり厳しいものになるとわかっていたので、私は彼に駿台の次年度授業が始まるまでに、かなりの負荷を課していきました。

 

旺文社の標準問題精講の数学3冊、理科2冊の計5冊を駿台の授業が始まる一ヶ月以内に全てやるよう指示し、授業でそれをチェックしていきました。

 

彼は授業が始まる頃には「ここのところ、太陽の光を見ていない」とすでにかなり応えている様子でしたが、私はそれまでの学習でかなり手応えを感じていました。

 

通う予備校に関しても、駿台の大阪校に通ってもらいました。大阪校まで行くのには大阪の都心部を突っ切ってもらうことになるので、朝などは通勤で忙しないところを通ってもらわないといけなかったのですが、私は「駅のホームでも電車の中でも関係なく勉強し続けられる根性持たんとあかんで」と発破をかたりして、彼もそれを迷わず実行してくれました。

 

そうやって、春からフルスロットルで学習をしていただいた効果は絶大で、駿台では上から12番目の成績まできました。

 

予備校の授業はうまく吸収してくれていたので、あとは単科医大に合わせて対策を取っていくとうまくいくと感じ、夏以降は単科医大対策を詰めていきました。

 

単科医大はなんと言っても難問系がどっさり出るので、ひたすら難問を解いていってもらいました。その他の対策はとりあえず棚において、難問対策です。

 

その後は特に言うこともなく、センターでは予定通り良い点を取ってくれて、すんなり前期で奈良県立医大に合格しました。

 

この生徒の例は浪人生の理想的な戦い方です。浪人生は春の模試ではいい成績が出ます。それは春は現役生がまだまだ仕上がっていないので当然なんです。しかしそこで余裕こいていると、後半かならず現役生が追いつかれ抜かれてしまうのです。

基本的に浪人生は春の模試が1年で一番いい成績だと思ってください。

 

前年の努力を無駄にせず、春のうちに実力を上げきってしまうことが浪人生の成功の一番の秘訣です。

 

塾・家庭教師時代⑤ ー 医学部志望者が増える→塾を開く

家庭教師専業として長くやっていくと、家庭教師センターからはある程度実力を評価していただけたのか、だんだん医学部志望者の案件ばかりいただくようになりました。

 

ある時、1浪人生の依頼が来ました。その時の私のスケジュールはほぼ埋まっており、夜の9時10時からスタートでした。当然朝から、指導して回っていますので、夜にはクタクタです。お母さんはこんなクタクタな先生連れてきてどうするんだと言って怒っていたこともありましたが、こちらとしては如何ともし難い。

しかしながら、そのご家庭の案件もなかなかな状況でした。

そのご家庭は開業医さんでしたので、ご両親は跡継ぎとなるお医者さんを3人の兄弟の中から希望しておられ、占い師さんに占ってもらった結果、「上の子は自由にさせなさい。下の子2人は医者にしなさい。」と言われて、なぜかそれに従って下の子2人を医学部に進学させようとしていました。

しかも、真ん中の女の子は声優志望で、一番下の弟は漫画家志望という状況で、そもそも医学部に生徒が向いていないというところからスタートです。

お父さんが、その弟に「漫画家になりたいなら、医者になれ」と訳のわからない説得を試みているのを見たときは、子どもを手塚治虫にでもするつもりだろうかと思いました。

 

そんなこともあり、この生徒もかなり手がかかりました。

 

姉の方は、駿台ではずっとMBクラスでMAに上がれなかったので、なかなか合格できません。入試が近づいて志望校を決めるとなって呼び出されたときは、私も忙しいので夜中の1時にお宅に伺って、明け方まで志望校決めに付き合ったこともありました。

 

一方、弟は遠方の学校で寮生活をしていたのですが、見事に遊び回っており、当然のごとく浪人しました。

しかしながら、寮生活をしていると根性と生活力は身につくらしく、弟は夏休みになると私の家に押しかけてきて、勝手に夏期講習だと言って家で勉強しはじめました。

私は朝から晩まで教えに出ているので、ほとんど家にいないと言っていたのですが、その期間は私の家で好き勝手に生活し、勉強もして、私が返ってくると、ちゃっかりその日にわからなかったことや疑問点などを質問攻めにしました。

 

そんなこんなで、姉弟合わせて10浪とういうとんでもないことにはなったのですが、2人ともきっちり医学部へ行きました。

あの根性だけは見上げたものだと今でも思います。

 

またあるとき、甲陽の生徒を教えたことがありました。

彼は現役生の入試の直前で依頼が来たのですが、さすがにこれは間に合わないという状態でした。正直ポテンシャルもそんなに高いわけではありませんでした。

残念ながら現役ではうまく行かず、浪人し駿台に通うことになりました。

 

しかしながら、駿台の授業開始は4月中旬なので入試の終了から1ヶ月ほど猶予があります。

私の生徒はいつもそうするのですが、入試直後から間をおかず徹底的に詰め直して行きました。

 

おかげで、春からみるみる力をつけて成績を伸ばし、次の年は拍子抜けというほどすんなり神戸大の医学部に通ってしましました。

 

私からすれば、まあこれだけ勉強してくれればそれは通るだろうなという感じでした。しかし当時知り合いに駿台の担任の方がいて、たまたまその生徒を担当していたらしいのですが、私が家庭教師でビシバシ指導し、彼もかなりの努力家だったことを伝えると相当驚いていました。

とう言うのも、彼は私の見る限りではやることをやって努力していました彼ですが、駿台の教室ではヘラヘラ遊んでいたらしいのです。

その担任は「正直、あんなやつがなんで通るんだと思っていたが、裏でそんなことをしていたとはなあ」と感慨深く言っていました。

 

みなさんも気をつけてください。受かるやつはちゃっかりやることをやっているものです。表面的な態度に騙されないようにしてください。

 

そんな感じで家庭教師専業で、ありがたいことに日々忙しく活動させていただいておりましたが、ある年の2月23日、国公立大前期日程の前日に足の骨を折ってしまったことがありました。

普通骨をおった程度でしたら自宅療養が一般的ですが、なぜか私を観た院長先生は強制入院させました。

 

その時婦長さんも不思議に思ったそうで、あとから理由を聞いてくださったのですが、それによると折れた箇所はそれほど問題ではなかったのですが、私が当時あまりにも無茶な働き方をしていたので、その疲労困憊具合を見かねたらしく、足というよりは普通に休養をとらせるために一定期間入院させたそうです。

 

それを聞いて、次の年から私も働き方を少し見直すようになりました。

 

それでも入試の只中の生徒を放り出すわけには行きませんので、当時はギブスを巻いて、一日一番多い日で5箇所の家庭を回りました。

その時は、幸いある家庭教師センターの方が私の専属ドライバーになって全てのお宅まで車で送ってくださったのでなんとかこなすことができました。

 

そのときの仕事はそのセンターからだけでなく、他のセンターも合わせ計4箇所から仕事を頂いていましたが、ドライバーになってくださった方はすべて送ってくださり、その時は本当に助かりました。

 

その後、ドライバーしてもらった家庭教師センターが医療系の塾をやるようになり、私も授業の依頼を受けて出入りするようになりました。

しかしながら、その塾はもともと家庭教師センターということもあって塾としてのノウハウが全くなく、ほとんど部屋を貸しているだけのレンタルルーム状態でした。講師と生徒の引き合わせて授業を設定するだけで、あとは全て講師におまかせ、まるで塾の体をなしていませんでした。

 

当然そんなところから合格者が出るはずもなく、その塾に通っていた一人の生徒の親が怒って塾に乗り込んでくることがありました。

正直言って仕方がありません。

その塾の方々が慌てふためいているときに、私はたまたま居合わせて、なぜか頼み込まれてその方の対応に交じることになりました。

 

そのお父さんの話を聞いていると主張は全くの正論で、私はその塾からの恩もあったので、その生徒の担当を引き継ぐことにしました。

それと同時に、その塾の形をある程度整えることにし、最低限早朝テストや成績管理、面談対応などを導入していきました。

 

するとそれだけで、生徒の成績が上がるようになり、まずはポコポコと私大医学部の一次合格をいろんな生徒が取ってくるようになりました。(講師のラインナップはかなりいい先生は揃っていたのは確かです。)

 

そしてクレームをつけたご家庭の生徒も無事、大阪市大(現大阪公立大)医学部医学科へ合格しました。

 

私がこれまでさまざまな家庭教師センターや塾、特に医学部予備校を見て思うのは、広告をガンガン打って、きれいで広い教室を備えたところも蓋をあけてみるとすっからかんというところが少なくないということです。

現在、私も大阪で塾をしていますが、それはこういった経験がベースにあります。

 

塾・家庭教師時代④ ー 家庭教師一本で活動を始める

京都で塾をしていた頃、ある日突然見知らぬ番号からFAXが送られてきました。見るとそこは家庭教師センターで、講師登録をしてほしいという内容でした。

講師募集というのは通常、センターが募集を出して、募集に対して講師が応募するというのが普通です。センターからいきなり打診がくるというのは初めてでびっくりしたのを覚えています。

 

正直その当時は京都の塾と家庭教師でぎっしりと時間が埋まっていたため、面接に行く時間はないと伝えると、向こうからやってくると言って塾の授業の合間5〜10分で済ませてしまいました。

そのセンターは理系の先生がほとんどいないらしく、かなり焦っていたようですが、それから家庭教師の依頼がかなり多く来るようになりました。

 

医療系予備校をやめる頃には、ありがたいことにこれまで家庭教師で教えていた生徒の兄弟姉妹の案件や、知り合いの家庭への紹介案件などがかなり増えていました。

 

また、いくつかの家庭教師センターから毎年たくさんの依頼を頂いてもいました。

 

ですので、これ以降は家庭教師専業で活動をしていくことになります。その後、自ら塾・家庭教師センターを開き現在に至っています。

 

その間にあったいくつかの案件を紹介してみようかと思います。

 

まず、家庭教師専業になって間もない頃、一度だけ広告を出した事がありました。それを見て一人応募してくれたご家庭がいました。その生徒は京都で当時偏差値40代の私立高校に通う方でした。

目標は医学部。

お母さんは同志社の内部進学で大学受験をあまり知らない方で、お父さんは国公立大医学部を出られたお医者さんでしたが、単身赴任中で子どもの教育には余り関わられていませんでした。

 

とにかくお母さんが強烈な方で、毎回指導に行くたびに罵詈雑言を浴びせられました。

しかしながら、生徒の学力はまともに勉強をしてきておらず完全に0状態。私は相当厳しいことをお母さんにお伝えしましたが、ほぼ聞き耳を持ってもらえず、関係のない理由で突然授業をキャンセルするようなことが続く有り様でした。

私はこれはまずいということで、1,2ヶ月でお断りをしました。

 

後日、同じ方へ英語を教えていた講師から話を聞くと半年間教えたそうですが、報酬は1円も支払われなかったとのことでした。

これを聞いては私は個人でやることのリスクを思い知って、かなり警戒するようになり、メインは家庭教師センターを通して指導することにしました。

 

その経験を通して私が思ったのは、これまでもそうでしたが家庭教師をする上で、やはり信頼関係は欠かせないということです。

 

講師が「こうすれぼもっと良くなる」という方法をどれだけ伝えても、それを実践してもらえなければ意味がありません。そのためには生徒から信頼を得なくてはいけませんし、ご家庭の方からも得なくてはいけません。

ご家庭の方は、学習面のみならず、受験する大学について、生活について、メンタル面について様々な質問をうけ、家庭教師を頼りにします。

当然、講師がその期待に応えてサポートし、信頼を得るよう努力しないといけません。

一方で、やはり「学ぶこと」「教えること」というのは人間のすることなので、どうしても結果が出るまでに時間がかかります。

願わくは、始めのうちは完全信頼できないまでも、一度決めたら一定期間は家庭教師の指導方法を取り入れ、続けることをしてほしいなと思います。

 

逆に、家庭教師と生徒・ご家庭でよい信頼関係を築くことができれば、厳しい状況でも成果を上げられることもあります。

 

そのしばらくあとで、家庭教師センターから案件をいただいて面談に行くことがありました。

そこで初めて、その生徒が先程の途中で終了した京都の生徒と同じ私立高校に通う生徒だということがわかりました。

しかも医学部志望で、学力を見るとこれまた完全に0状態。

正直これはやばいと思いましたが、家庭教師センターからの依頼でしたので、委託された講師の私が勝手に断るわけにはいきません。

ですので、まず「推薦はお考えですか?」と尋ね、今どのような状況で、現実的に目標がどれほど厳しいものかというものを淡々と伝えました。

 

すると、そのご家庭ではかなり厳しい先生が来たという評価にはなったのですが、医学部受験の厳しさに関しては認識していただけたようで、逆にこの先生についていった方が良いということで私を選んでいただきました。

その生徒は4浪で私立大の医学部に合格しました。

 

また、あるとき以前教えいた生徒のご兄弟を指導してほしいという案件が来ることもありました。

その生徒は当時高1だったのですが、依頼の際「先生、この子はくるとこまできました。大学に通してくれとは言いません。まっとうな人間にしてください。」と言われる前代未聞の依頼でした。

 

いろいろ状況を聞くと、学校のテストで数学は9点でその他の科目も似たりよったり。これは本当に手がかかりました。

朝指導に行くと、まだベッドで寝ています。その彼の足を掴んでベッドから引きずり下ろすところからがスタートです。

勉強もさることながら、何かとトラブルを引き起こしてその都度面倒を見てあげることになりました。

そんな彼も最終的には近大に合格していきました。結局彼との付き合いは今でも続いています。