依頼が来たのは現役生の冬でした。
かなり努力家の女の子で、塾も有名な進学塾に通っていました。
依頼が遅かったこともあり、数週間でそれほど変わるはずもなく、センター試験は失敗し、結局浪人することになりました。
医学部受験で現役合格するのは、特に国公立大学は相当周到な準備が必要です。
そのお宅は当時大阪だったのですが、しばらくして京都に移りました。
そのお母さんが言うには「うちの家は子供に合わせて、家を決めるんです。実家は愛媛にあるので、最終的にはそこに帰ります。それまでは子供に合わせて家を変えます」ということで、つまり弟が京都の私立中学に合格したためそれに合わせて引っ越しをしたということでした。
そこからも分かる通り、かなり教育熱心なお母さんでした。
しかしそれだけのことはあって生徒もかなり熱心で、さらに周到な性格をしていました。
志望校もよく関西の国公立大志望者があげるように阪大や市大(現公立大)と言うのではなく、岡山大と言っていました。その理由は、最終的に帰ることになる愛媛とそのエリア(四国・中国地方)で、一番幅を利かせている大学だからということでした。
この生徒は非常に優秀で、予備校もそつなくこなし、実力も特に問題なくつけていきました。
秋には防衛医大で軽々と合格を取り、私大では大医・関医と正規合格、そのまま前期日程で岡山大学もきれいに通ってしまいました。
結局彼女は入試で負けなしでした。
それから何年かして、弟くんの受験も再度ご依頼を受け、お手伝いさせていただくことになりました。
それは3月末だったのですが、電話がかかってきて取るなりいきなり、
「先生、近大の後期に通ったんですが、どう思います?これやたら猛威2年させたほうが良いですよね?」
と畳みかけるように聞かれて、はじめはさっぱりわけが分からず
「失礼ですが、どちらさんでしょうか?」と聞き返してしました。
結局、弟くんはお母さんの強い意向もあり、近大を休学にして予備校に通って再受験することになりました。
ちなみにその時はてっきり京都へ教えに行くものと思っていたのですが、今度はお家は神戸に移っていました。
その家のお父さんはというと、大学の教授選に出るほどの方だったのですが、可愛そうなことに今回はこっち、次はあっちと、お母さんの指示を受けて車一台とともに右往左往し、付き従っておられるようでした。
弟くんは、お母さんと祖母と叔母に完全管理されている状態のようでした。
岡山大に言った姉はというと、やはり相当優秀な成績を修めており、学年で1、2を争っていたそうです。そんな事もあって弟くんは家族に対し立つ瀬がない状態で、彼女ができるようなこともなく厳しい管理のもと学習をしていました。
そんな弟くんはかなりプレッシャーに弱い性格で、いざセンター試験の本番では大コケしてしまいました。
これはまずい思い、受験の焦点をずらす作戦を取りました。
センターの点数から国公立は厳しくなったので、現実的には大医・関医の合格はほしいところでした。しかしそこを焦点にしてしまうと彼の場合プレッシャーになってしまうので、あえて慈恵会を受験してもらい、あたかもそれが目標だということにして、大医・関医から目をそらして紛れさせました。
対策もほぼ慈恵会を中心に行って、大医・関医などは勝手にやっといてという始末で、ご家庭の方からもなるべく他の受験校のことについては話を避けていただきました。
それがハマったのか、慈恵会は残念ながら二次補欠止まりだったのですが、大医・関医は両方正規合格をとり、大医に至っては特待生まで取りました。
ちなみに、秋頃彼も防衛医科大学を受験したのですが、その申し込みに行った際募集案内所で住所を書いた時、「ひょっとして君、お姉さんいないか?」と聞かれたそうです。
「います」と正直に答えると、彼は自衛隊の方に「君のお姉さんにはさんざん騙された」と恨み言を言われました。
お姉さんは国公立の合格を確認するまで、防衛医大の合格を確保しておくために「私は防衛医大しか考えていない。他の大学は考えていません。」とはっきり言っていたので、その自衛隊の方はあれやこれやとお姉さんの世話をしていたそうです。
しかしいざ岡山大学の合格をとると手のひらを返して防衛医大の合格を蹴飛ばしたので自衛隊の方はかなり困ってしまったということです。
そして、そのつけが弟くんに回ってきていたようでした。
弟くんは防衛医大には通りませんでした。まあ学力的にも通っていたかわかりませんので、そのせいかどうかは定かではありません。