京大・阪大・医学部受験のあれこれ

京都大学大学院卒のプロ講師・家庭教師によるブログ

定員割れの公立高校から京大に現役合格した話①

どうも、京都・大阪を中心に奈良・兵庫など関西一円で家庭教師をしている長谷川です。
これからブログで私の講師としての経験を書いていこうと思いますが、今回はせっかく最初の記事ですので私自身の受験の経験を共有させていただこうと思います。

わざわざ遠い北嵯峨高校

あれは小3の春のことでした。
いろいろ物語があり、家が立ち退きになりました。
当時、親はいろいろ大変だったみたいです。それはさておき、次の家の候補は2ありましたが、当時中3だった私の双子の姉(ウシと呼ぶ)が結局家を選びました。
 
私は小学生でしたので、どちらが良いなどという話し合いにも入れず、そもそもどちらが良いかなど考えることすらありませんでした。
そうやって大事な決定に関われないのは末子の損なところです。
 
というのも、そのときの京都の公立高校入試は統一の試験で、進学する高校は居住地によって決まりました。候補の家だった場所は、それぞれ北嵯峨高校嵯峨野高校のエリアで、北嵯峨高校は制服、嵯峨野高校は私服だったのです。後から思うと、家から歩いて10分で当時私服で通うことのできた嵯峨野高校だったら非常に楽だったのに、ウシは毎日私服を選ぶのめんどくさいという理由でわざわざ遠い北嵯峨高校のエリアの家に決めてしまいました。
 
この事実に気がついた後、私は散々ウシを恨みました。
 

家庭教師のN先生

私にとっての転機は家庭教師でした。高校1年生になり北嵯峨高校に通い始めたとき、立命館大学に通っていた学生さんが家庭教師に来ることになりました。
 
その初日、最寄り駅のJR太秦駅に迎えに行った帰り道でN先生からどの大学に行きたいのかとおもむろに聞かれました。
 
当時私は大学の名前なんてほとんど知りませんでした。たまたま、子供向けの湯川秀樹の伝記が家にあり、京都大学という名前を知っていたので、とりあえず「京都大学かなあ」と適当に答えました。
 
すると、N先生の態度は豹変し、閑静な住宅街の中大声で「君は自分が何言ってるのかわかっているか」と聞きました。その後、延々と今から京都大学に入ろうとするのがどれほど大変なことかということを、ほとんど怒られながら教えられました。
 
その時は本当に軽い気持ちで答えたのに、それによってN先生のスイッチが完全に入ってしまい、そこから京都大学志望は既定路線となってスパルタレッスンが幕を空けることになりました。
 
N先生からは主に英語を教えてもらいました。
高2までにとにかく文法と単語・熟語を叩き込まれました。というかほとんどそれしか教わりませんでした。
 
またN先生には常に怒鳴られ、怒られてました。
郵便配達のアルバイトをすると言った時は、京大志望が「何言ってんねん」とめためたに怒られ(それでもやりました)、N先生の下宿先に遊びに行った時にはN先生の友人から麻雀を教えてもらい、それがバレてまた怒鳴られました。
授業のときも、毎回単語15個と熟語25個のテストをするのですが、1回目のミスは怒られませんが、2回目同じミスをするとまた、めちゃくちゃに怒られました。
 
我が家ではこれが日常となって、ウシたちは私が怒鳴られていても、「ああまた始まった」と落ち着いたものでした。
 
しかし、そうこう教えてもらって高2になったとき、ある日突然N先生は「これで授業は終わりです」と終了宣言をしました。
私は「は?」と口をぽかんと開けて、唖然としました。先生は「私は立命館大なので、これ以上教えても立命館大止まりや」といいました。
 
そうはいってもこれからどうすれば良いのかわからないので、私はN先生に「これからどうすればよいのですか?」と聞きました。するとN先生は「さあ知らん。自分で考えろ。」と言って放り出されました。
 
その後、N先生は卒業して広島へ行き、高校教師になりました。今から思えば私はN先生の実験台だったようです。